web小説 月下の白刃⑦
ふわふわとして現実味の無いこの感覚……。
今ならどこまででも行けそうなのに、何故か思うように身体を動かせないこのもどかしさ……。
そうか……俺はまだ夢の中に居るっすね……。
願わくば、このもどかしいほどの幸福感が、出来るだけ永く続いて欲しいっす……。
「はぁ……起きてびっくりだわ……」
「そりゃこっちの台詞。何で俺ら堤下の部屋にいたんだ?」
俺の切なる願いも虚しく、そんな会話が俺の頭にぶち込まれてきたっす……無視しちゃおう。
「私ら二人で飲んでて……手下Aの事で盛り上がって……あんたが泣きながら手下Aの事を哀れんでたとこまでは覚えてるんだけど……」
「俺……泣いてたっけ?」
「あんた突然泣き上戸になるしね。それまでは至って普通だから、そん時の対応にいつも私は困るのよね。」
「そーゆー美依さんは、おっさん化を経てやたらとかわゆくなりますな。にゃんにゃんにゃんにゃんと、恥ずかしげもなくよくあれだけすりすりとすり寄って来れるよね。しかもややマゾヒスト。」
「あ、ああああれはぁぁぁぁぁ……わ、私は元が猫なんだからしょーがないじゃん!」
「言葉でいじられ、身体もいじられ、それでも泣きながら喜んで…うべひっ!」「人の話を聞けぇぇぇぇぇ!このサディストがぁぁぁぁぁ!!はぁはぁはぁ………………あれは、あんたと2人っきりの時だけよ……」
「……照れ隠しで右ストレートかますの止めてくれます?こっちの身が保たんがな……。」
「それは自業自得じゃ……あ!こんなところに居やがったわ手下A……。」
ゲッ……。
「ホントだ……なんか眉間に皺が寄ってるけど?」
「手下Aのクセに私らより朝寝坊とはどういう了見かしら?手下Aなんだから、私らの目覚めに合わせて朝食ぐらい準備しとくべきじゃないかしら?」
「それを言うなら美依さん……たまには俺より早く起きて、朝飯作ってくれても罰は当たらんと思うけど?」
「こ、ここここの間作ったでしょぉぉぉぉぉ!!」
「コンビニで買ってきた弁当を器に移しただけじゃん。しかも、買ってきたのはこの俺だし。」
「文句があるなら食うな!!」
「へぇ、そんな事言う?俺と美依さんの食費、来月からきっちり分けて計算しようか?」
「そそそそそんなことよりこの場は手下Aよ!私達の空腹を満たす事も出来ない手下Aには正義の鉄槌をくれてやるのよ!」
な、何故に……。
「……ま、いいけど。腹減ってんのは確かだし。」
え?いいって何がすか?……ってこのパターンは……や、やばいっす!
起きろっすよ俺!動くっすよ俺の身体!今すぐ目覚めるっすよ堤下栄ぃぃぃぃぃ!!
「起きろっすよ俺ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
「きゃ!」「うわ!」
「はぁはぁはぁ……」
ま、間に合ったっす……。
何とか自力で起きることに成功した俺は、ゆっくり二人に視線を向けたっす。
「手下A!いきなりなに……」
「堤下…そんなに焦って……」
「……?」
なんすかね?何かやたらと視線が冷たいような…………あ。
「手下A……いくら何でもそれはないんじゃない?」
「堤下……お前がそんな趣味だったなんてな……。」
「ち、ちちちち違うっすぅぅぅぅぅ!!」
会社のソファーで寝ていた俺の横には、いつの間に潜り込んできたのか、向かいのソファーで寝ていたはずの樹里が気持ちよさげに眠っていたのだったっす!!
……しかも何故かほぼ裸。
二人の冷たい視線を受けながら、この窮地をどう脱すればいいか、俺はぐるぐると思考を巡らせるっす!
どうするっすか俺……どうするっすか俺ぇぇぇぇぇ!!
慌てふためく俺の横で、樹里が寝ぼけ眼(まなこ)でむっくり起きあがったっす。
樹里は眠たそうに目を擦って、んん~っと一つ伸びをすると、寒かったのだろう、ブルッと身体を震わせ、自分の元へと毛布をたぐり寄せて、座ったまままた目を瞑ったのだったっす。
「堤下……青少年保護法令ってしってるか?売春禁止法は?」
「これで手下Aも犯罪者の仲間入りか……」
兄貴は無表情に、金城さんは本気で俺を哀れんでるような表情で、そんな台詞を口にしたっす!
「ご、ごごごご誤解っすぅぅぅぅぅ!!」
俺は激しく首を振りながら声を大にしてその言葉を否定したっす!
―ガザ…―
俺の絶叫で目が覚めてきたのか、樹里は欠伸を一つ入れた後、抗議の視線を俺に送ってきたっす………って、抗議したいのは俺の方っすよぉぉぉぉぉ!!
「樹里!何でこっちに入って来たっすか!しかもパンティ一枚で!!そっちのソファーで寝なさいって言ったはずっすよね!?」
樹里は、俺の半泣きになりながらのこの台詞にキョロキョロと周囲に視線を巡らし、ようやく状況を把握したのか、小首を傾げ自分の身体をギュッと抱きしめながら《寒い》のジェスチャーを返してきたっす。
「寒かったら服を着ればいいっすよ!なんでわざわざ裸になるっすか!?」
「……」
樹里が無言でさした指の先にあるのは、綺麗に折り畳まれた彼女の洋服だったっす。
「……皺が気になるっすか?なら早めに俺に言えばよかったんすよ……予備のジャージぐらいここに置いてるっす……。」
「……起こすの……悪いし……。」
はにかんだ笑顔でそんな事を言ってくる樹里に、俺はすっかり毒気を抜かれてしまったっす。
「……はは……そんな事気にする必要ないんすよ?」
俺は、苦笑しながら樹里の頭を撫でたのだぐばぁぁぁぁぁ!!
―ガシャァァァァァン―
「……さっさと事情をご説明して頂けませんかね?手下Aさん?」
回し蹴りを喰らって吹き飛んだ俺に、金城さんは無表情にそう言葉を投げ掛けて来たのだったっす……この人を前にすれば、どんな女性もお淑やかに見えるっすね……へぶし!
「……悪かったわね……凶暴かつ乱暴で。」
俺の後頭部を踏みつけ、冷たくそう口を開く金城さんに、俺は慌てて申し開きをしたっす。
「……お、俺はなんにも言ってないっす!」
大体いつの間にここまで近寄ったんすか?
「だめだよ堤下……お前、気配に出すぎるんだって。」
『気配だけでそこまで分かるもんなんですか!?』
思わずそう口からそんな言葉が出そうになったっすが、それはなんとか踏みとどまることが出来たっす。
……これ以上はマジメに命に関わるっす……。
「まぁ美依さん。堤下の話を聞こう。その娘も、ほら、脅えてるって。」
その言葉に、金城さんは俺の頭から足をどけて、どさりとソファーに腰掛けたっす。
俺が顔を上げると、樹里は兄貴の言った通り、引き吊った顔で、目尻に涙を浮かべて恐怖におののいていたのだったっす。
「……と言うわけっす。」
「ふ~ん……」
俺の言葉に、兄貴はそう軽く頷いたっす。
俺は今、樹里と出会ってからこの場に至るまでのあらましを、水無月の兄貴と金城さんに語っていたところっす。
その間、金城さんは何故か口を噤んでじっと樹里を見つめているっす。樹里はそんな金城さんの視線が気になっているのか、もぞもぞキョロキョロと落ち着きがないっす。
「だから俺は!……この娘に手出しなんかしてないっすし……それどころかやましい事なんて何一つやってないっす!」
俺は必死にそう訴えるっすが、聞いているのかいないのか、金城さんは眉一つ動かすこともなく、じっと樹里を見つめているのだったっす。
「……金城さん、聞いてるっすか?」
「……」
「金城さん?」
「……」
「……ペチャパぃぐがふ……」
聞こえてるじゃないっすか……。
俺は口に飛び込んできた湯呑みを、取り出しテーブルの上にコンッと置くと、助けを求めて兄貴に視線を送ったっす。
しかし兄貴は、肩をすくめて『さぁ』とジェスチャーを返してくるっす。
「金城さぁん……」
「……」
再び声を掛けたっすが、やはり沈黙をもってそれに応える金城さん。
「金城っ!……さん?」
俺が、業を煮やして声を荒げたその瞬間、金城さんはこちらも見ずに片手を挙げてそれを制してきたっす。
「……?」
思いの外、真剣なその様子に出かかっていた言葉を飲み込み、口を噤む俺。
金城さんは、樹里の心を覗き込むかのように、じっと彼女の瞳の奥を見つめているっす。
固唾を飲んでその様子を見ていると、金城さんの口がゆっくりと開いたっす。
「……あなた…名前は?」
「……折原……樹里……」
金城さんの質問に、蛇に睨まれた蛙状態で身を強ばらせて応える樹里。
「……"そっち"じゃないわ。私が聞いているのはあなたの本当の名前。」
金城さんの言葉にビクンと身体を震わせて、ゆっくりと横に首を振り始める樹里。
……"本当"の名前?
「あなたを悩ましている"その"名前……それがあなたの本当の名前……。」
「……あ……あたしは……樹里……折原…樹里……」
しかし樹里は、金城さんさんの言葉を否定するかのように首を振り続け、自分が『折原樹里』だと訴えるっす。
その顔には、少しずつ恐怖の色が帯始め、頭の動きが激しくなっていったっす。
「……それも確かにあなたの名前……でも私が聞きたいのはそれじゃないの……」
「あたしは!……………あたしは樹里……折原樹里……あたしは……あたしは……あた…しは……あたし……………ちが……う……ちがう……あたしは……ちがう……違う!」
徐々に激しさを増す樹里の様子に、さすがの兄貴も心配そうに金城さんの肩を叩くが、それも無視して金城さんは樹里を見つめ続けているっす。
「かね……」
俺が声を掛けようとすると、兄貴が目配せしてきてそれを止めるので、俺は再び口を噤んだっす。
「何が違うの?」
「……あたしは……違う……違うもん!あたしは…あたしは!……………………………………だもん……………………………………あたしは……あたしは人間だもん!化け物なんかじゃない!!」
そう叫んで、頭を抱えて泣き崩れる樹里……。
化け物?一体何のことっすか?!
俺は金城さんに目配せしたっすが、やっぱり無視されたっす。
「金城さっ!……」
俺が再び声を荒げたところで、金城さんはすっくと立ち上がり、泣いている樹里の元へと近付いていったっす。
すると、金城さんは樹里の身体を優しく抱きしめ、ゆっくりと頭を撫で始めたっす。
「あたしは……人間……あたしは折原樹里……あたしは……あたしは……人間?…………あたしは……あたしは一体………」
樹里は、金城さんの胸に抱かれている事にも気付いていないかのように、涙を流しながら、ぶつぶつと呟いている。
「……あたしは……………………………………あたしは化け物………あたしは………樹(いつき)……」